自民党政権の崩壊
2年前の2009年8月の総選挙で、民主党は大勝しました。その結果、半世紀以上続いた自民党政治は、ひとまず幕を下ろしました。この選挙で民主党は 「政権交代」一本槍で、政権交代が実現すれば、世の中はすべてバラ色になるかのようなことを言っていました。いわゆるマニフェストを発表し、そこにはそうしたことが満載されていました。その時の民主党の党首であった鳩山由紀夫代表は、沖縄に出かけ、普天間基地は国外に、少なくとも県外に移設する、と大見得 を切りました。無駄なダム建設は直ちに中止する、高速道路の料金は無料にする、子ども手当を支給する、国会は、政治主導で進める、従って国会での官僚の答弁は禁止する、などなど、それこそチョコレートのような甘い言葉が並べられていました。
こんなことが全部出来るわけがない、と思いつつも、国民の多くが民主党の候補者に投票してしまいました。この選挙までの4年間、総理大臣は自民党の中で 安倍、福田、麻生、とめまぐるしく代わりました。とうとう漢字もロクに読めない総理大臣が出現するに及んで、多くの国民はいいかげんウンザリし、もうこれではどうしようもない、と思ったのは無理からぬことでした。
民主党鳩山政権の誕生
こうして2009年9月、政権交代が実現し、民主党政権が誕生しました。党首である鳩山由紀夫氏が総理大臣に選ばれました。鳩山首相は、今から約55年前に総理大臣をしていた祖父の鳩山一郎氏が唱えていた「友愛」政治なるものを、またぞろ言い始めました。しかし、その中身となると、あまりにも曖昧模糊としていて、何のことやらさっぱりわかりません。
さて鳩山首相は、10月26日国会で所信表明演説を行いました。これまでの自民党のあれこれの総理大臣の所信表明演説とくらべると、たしかに相当毛色が変 わっていたことは事実でした。「国民の参加によるオープンな政策決定」、「コンクリートから人へ」、政治は弱者のためにある」、そしてアインシュタインの言葉を引いて「人の笑顔が我が歓び」、などと、舌どころか体中がとろけそうなことを言いました。
これらの言葉は、夏の夜空に打ち上げられた花火のように、目を見張るような鮮やかな、そして華やかなものでした。そしてこれらは、多くの国民に何かが変わるのではないか、そんな思いを抱かせるには十分でした。しかし、残念ながら、これらの言葉はその後の経過からわかるように、まさに言葉だけで終わってしまいました。夏の花火のように、打ち上げられたとたんに消えてしまったのです。
鳩山政権のつまずき
こうしてスタートした鳩山政権は、マニフェストに書かれているところの「こども手当の支給」「ガソリン税の暫定税率廃止」「高速道路無料化」などの政策を打ち出しました。
また、政治主導もマニフェストの目玉商品でした。国会での官僚の答弁を禁止もその具体化の一つでした。さらにこの政治主導の具体化として鳩山政権が打ち出したのが、政府の行政刷新会議による「事業仕分け」でした。かの蓮舫氏が「なぜ世界一を目指すんですか。二位ではいけないんですか」と言い放って一躍有名 になり、世間の注目を集めたものです。この事業仕分けは、こうしてマスコミを大いに賑わしたのですが、平成10年度予算の概算要求95兆円を3兆円圧縮するという目算だったところ、実際の削減額は約6700億円であり、目標にはほど遠いものでした。ところでこの事業仕分けは、一回目の時にはある独立法人の体育館を使い、その費用は9日間で50万円だったそうです。ところが鳩山政権は、この事業仕分けが世間の注目を集めたことに気をよくして、二回目の事業仕分けは「ショウアップ」に力を入れ、会場を民間のオフィスビルに変えテレビ局の中継車まではいるようなところを確保しました。その結果、その費用は実に2645万円にまで膨らんでしまったと言うことで、「事業仕分け」そのものが「事業仕分け」されそうな有様です。結局このように大騒ぎをしたのですが、結果は芳しくなくまさに「泰山鳴動して鼠一匹」だったのです。
いずれにしても、鳩山政権は、沖縄の普天間基地の移設問題で沖縄の人々から強い不信感を抱かれ、他方アメリカの不興を買い、にっちもさっちも行かなくなってしまいました。こうして、2010年5月、鳩山氏は政権を投げ出してしまいました。