父母がなくなってお寺さんとのおつきあいをするようになり、ようやく自宅の仏教は浄土真宗本願寺派だということを認識しました。親鸞が開祖で京都の西本願寺が本山です。学校の日本史で宗教の歴史を学んだ以外に、仏教の宗派の違いを深く考えたことがありませんでしたので、たまたま刊行されていた週刊朝日百科の「仏教を歩く」(改訂版)を毎週買って読んでみることにしました。
それをぱらぱらと寝る前に読んでみると、戒律を守り修行する者、祈祷を依頼できる者にのみ与えられていた仏教の救いが、念仏という単純で簡単な行為を通じて貧しく名もなき生活をする一般の人にも与えられると考えたのが、源信や法然であり、それをより徹底したのが親鸞である、ということがわかりました。いや、そんなことは日本史の授業で字面では知っていました。しかし、死は誰にでも平等にやってくるのに、死後の「往生」は、かつては平等ではなかったのだ、という観点に気づいたのは今回が初めてでした。
貴族と修行者のものにすぎなかった「往生」がようやく大衆化され、誰にでも平等に開かれたものにしたのが平安末期から鎌倉時代の他力本願の流れで、さらに進んで、生きてる間の人の権利の平等が認められるまでにはさらに数百年後の年月が必要で、今の日本国憲法までかかりました。
人間は平等になるために、ずいぶん時間をかけて歩んできたのだなあ、とあらためて感じました。
そして、死後の「往生」を平等化しようとした人たちは、やはり当時の現状に疑問をもち、庶民の苦しみを目の当たりにし、それを改革しようと考える先進的な人たちだったのだ、とあらためて見直したのでした。全くもって勝手な自己流の仏教解釈です。が、そんなことを考えながら、前記の仏教週刊誌をぱらぱらと読んでいるのです。
ことのはぐさ
2013.07.23 弁護士 井上洋子| 仏教の救い「往生」の平等