去る4月25日から5月5日まで、東欧バルカン半島のクロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを旅行してきました。そこでこの旅行について報告したいと思います。最初は、クロアチア、スロベニアなどの歴史についてです。
これらの国は、もとユーゴスラビア連邦人民共和国の一部でした。ユーゴスラビアは、第二次世界大戦でパルチザンを指揮してナチスと戦い勝利したチトーが、大統領として統治していました。第二次世界大戦後、ポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、などの東欧の国々は、ソ連を盟主とする社会主義体制の中に組み込まれていました。チトーの指導するユーゴスラビアも、社会主義体制をとっていたことからその中に組み込まれていました。その結果、ユーゴ以外の国々は、いわばソ連の衛星国としてスターリンの指示に従っていました。
しかし、チトーは第二次大戦中、ソ連の援助を受けず、自らパルチザンを組織しそれによってナチスと闘い、ユーゴの独立を勝ち取った、その実績のもとに、スターリンの指示には従いませんでした。そのためスターリンは、1948年にユーゴをソ連や東欧の共産党で結成されていたコミンフォルムから追放してしまいました。いわば共産圏からの破門です。
ユーゴは、もともとはバルカン半島に、セルビア、クロアチア、モンテネグロ、イスラム、などの国々が割拠していたのですが、第一次世界大戦後にユーゴスラビアという一つの国にしたものです。しかし、一つにまとまった後も、国内では民族間の対立は続き、絶えず紛争が起こっていました。
第二次大戦後チトーの指導するユーゴは、こうした民族間の対立を緩和するために緩やかな連邦制を取るとともに、ソ連から破門された後は、ソ連の社会主義とは違った独自の社会主義の道を歩むことになりました。そして東西の冷戦が激化する中でチトーは、第三世界の中立国を結集して非同盟外交を展開しました。こうしてチトーは、インドのネール、エジプトのナセルなどとともに第三世界の輝ける星になりました。
しかし、1980年5月にチトーが死ぬと、いわばユーゴというたがが外れた結果、再び民族間で主導権争いが起こり、そのため紛争が絶えませんでした。
そして、1990年のソ連崩壊とともに、クロアチア、スロベニア、などが次々に国家としての独立宣言をし、ユーゴの崩壊が始まりました。
とりわけセルビアは、かつてバルカン半島を支配するほどの勢力を誇っていたのですが、チトーのユーゴ時代はその勢力を押さえ込まれていました。かつての「大セルビア主義」の復活をもくろんだセルビアのミロシェビッチは、自治州であったコソボに乗り込み、その支配権を確立しました。このコソボには、多数のアルバニア人がおり、セルビア人の支配に抵抗し、こうして内戦が始まったのです。この内戦では多くの人々が虐殺されたことは、記憶に新しいところです。
そしてこの内戦は、コソボだけではなくスロベニア、クロアチア、モンテネグロなど各地で起こりました。それは、それぞれの国に住んでいた少数民族(たとえばクロアチアの場合には、クロアチア人がほとんどでしたが少数のセルビア人が住んでいました)が独立に反対し抵抗したのです。
これらの紛争も2000年に入って解決し、現在はスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの六つの国となっています。