遅ればせながら映画「そして父になる」(是枝監督)をテレビで見た。ずっと以前に同監督の映画「誰も知らない」を見て、子どもの視点で作品を作れる貴重な映画人だと思っていた。国連の子どもの権利条約を日本が批准して20年以上になるが「子どもはこの課題をどう受けとめているのか」と考える大人はまだ少ない。
今、家庭裁判所でホットなテーマが親の子どもとの面会交流(民法766条1項)であることをご存じだろうか。面会交流は両親が別居しているとき、子どもをみている親がみていない親に子どもを会わせる形で行われる。婚姻中の別居、離婚による別居のケースなどである。多くの場合母が子どもをみていて、父が面会を求める。母がDVで夫の暴力を受けていた場合、子どもが直接父の暴力を受けていた場合でも裁判所は面会交流を認めることが多い。ましてやこれらの暴力のない場合は当然のように面会交流を認める。子どもが父の存在を、そして交流をすることでその存在を知ることは「子どもの福祉」に合致するという命題を持っているからだ。
しかし、母は面会交流を拒むことが多い。何故か。暴力がない場合でも、子どもを育てることに参加してこなかった夫がにわかに「子どもに会いたい、私は父だ」と主張することに違和感があり、自分が離婚を決意した夫に対する信頼感のない状態で大事な子どもを一時的にも委ねたくないとの思いからである。幼子の場合、意見を表明できない子の代弁をしているとも言える。
私はこの対立について、調停の席上裁判官と議論したことがある。調停委員は裁判官と議論した弁護士を初めて見たと言った。
私は平行線に終わったこの議論の答えを「そして父になる」の映画にあったことに驚いた。裁判所は結局「親子は血のつながり」だと言いたいのであろう。母の多くは「親子は日々のつながり」だと言っているのである。子どもたちは今、子どもを育ててくれる大人の存在を求め、そしてそれを口にすることが出来る時代に生きている。先日には、審判手続の中で4才の子どもから調査官が意見聴取した裁判所もあった。子どもたちは父を求めているのではなく、子どもとの触れ合いで父になっていく大人を求めている。「子どもの意見表明権」を世界の歴史に初めて登場させた国連子どもの権利条約の先見性に感嘆する。日本がこの条約を実行しているや否やの定期的な日本審査は来年早々から始まる。皆さんには是非とも注目していただきたい。